« 手術日決定 | トップページ | まずは過去を学ぶことから »

2022年3月22日 (火)

外の時間と内の時間

 ”一方向に流れる時間” という観念が誕生したのは4世紀の頃らしい。時間が周期をもつ物質の運動と紐づけられたのは16世紀で、現在日常的に使っている時計が広く使われるようになったのは近世になってからだ。今現在使用しているような時計が製造されるに至るまでには、さまざまな自然現象や発見を活用された。そうしながら、人間に共通な時間を示すための知恵と工夫が繰り返されてきた。そうして時計は、限られた人のものではなくなった。いまや時計は時間という言葉から連想される代表格だといっても過言ではないし、時間を現出する役割を担う道具となって多くの人の生活の中に住みついている。その意味においての時間は、人の外側で一定のリズムを刻む指標であって、ゆえに誰にとっても同じ尺度を提供してくれる。そのおかげで、離れた場所にいる人と人との間でも同じ”時間”を共有することができる。時計は人間内部の働きの影響を受けない外的な時間を示す。外的な時間は人間が集団で暮らすためには有用だ。だからこそ、大半の人間は共通な時間に囲い込まれている。
 
 その一方で、それぞれの人の内部に潜む時間がある。この時間は外部の時間に抵抗する傾向があるように思う。というのも、人間の内部に潜む時間は原子の運動のような一定さはない。その証拠に、休日などに時計を見ないで過ごすと生活のリズムが──いとも簡単に──崩れる。このような経験は誰しも身に覚えがあると思う。時計なしで自然に備わる体内リズムがあるとしても、もし太陽がなければ体内リズムは獲得できないままに一生を終えるのではないかと思う。
 もうひとつ付け加えるなら、常に一方向に流れているとは限らないように思う。行きつ戻りつするような自由さがあるように思う。

 人の内部に流れる時間は個々それぞれバラバラで、しかも一定ではない。太陽の動きに合わせるより機械時計の方が優勢な現代では、頻繁に時計を利用することで生活のリズムを整えている。くり返される経験はいずれ習慣化し、意識しなくても身体が覚えてくれる習得した技になること──許容される範囲の誤差は含まれるにせよ──はめずらしくない。けれども、物心ついた頃から日常的に頻繁に時計を確認して生活の指針にしているのにも関わらず、一定間隔で進む時間を体得することは難しい。というかできる気がしないし、ひょっとしたら不可能なのかもしれない。
 何をして過ごしているかの違いで、同じ一時間が長く感じたり短く感じたりするのは日常茶飯事だし、あるいは、ポカポカ陽気の昼下がりの満腹な時間帯に、うっかり「意識がとんだ」状態になると、一瞬時間が止まっていたような感覚に陥る。いずれにせよ私たちは、時計を眺めることで、先ほどの自分が錯覚した時間の中にいたと認識する。そして、時計の方に私の内部時間を合わせる。

 このように、外部で示されるような機械的時間と私の内側にある時間の感覚の間にはズレが生じる。そう考えているからこそ大事な用事がある時には時計を忘れないように気を配る。自分の内部時間感覚ではなく時計の針を基準にして行動する必要があるからだ。外部の時間と自分の内部時間が一致することを頼りにすると、おそらく失敗するだろうことを経験的に学んでいる。だから、時計を忘れないように気を配る。時計で時刻を確認することなく同じ時刻に同じ行動をするなどとは予想外だと考えることは自然だろう。

 ところが、ずいぶん前になるが、必ず同じ時刻に台所の時計の前を通り過ぎていた時期があった。朝の時間帯ならば頻繁に出入りをするので確率は高いだろうが、平日の昼過ぎの、どちらかといえばリビングでゆっくり過ごしていた時間帯でそれは起こっていた。しかも、その時間は子どもの誕生日と同じ数字、しかもそれはゾロ目の数字が並ぶ時刻だった。確実に毎日ではない。一日間が空いたり、そもそも休日などはその時刻に家にいなかったりしたので連日続いたわけではない。けれど、ふいに立ち上がって台所へ行き──おそらく手にはマグカップか何かを持ち──、ふと何気に視線を動かすと台所にあるデジタルの時計がかなりの高確率でその時刻を示していた。偶然にしては長く頻繁に続いた。
 もちろん、その時刻に台所に行こうと意図したわけではない。結果的にそうだっただけのことだけれども。

 その後、生活のリズムが変わったためその時刻に在宅しない日も多くなり、それと共にこの偶然は起こらなくなってしまった。他の数字の時刻ならば記憶に残っていなかったかもしれない。たまたま、子どもの誕生日と同じだったので印象的だっただけなのかもしれない。それに、デジタルの時計だったので気付くのが容易だったせいもあるに違いない。

 外部の時間と内部の時間がクロスする時刻が子どもの誕生日の数字と同じだったという愚然を人に話したところで何の反応もないだろうし、話された方も困るだろうから、記憶の中に留め置いてきた。文字を打ち込みながらその時のことを思い起こしていると、つい最近起きたような感覚になる。これも、不思議な時間感覚のように感じられる。

« 手術日決定 | トップページ | まずは過去を学ぶことから »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 手術日決定 | トップページ | まずは過去を学ぶことから »