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2021年10月12日 (火)

わたしの好きな映画

 好きな〇〇は?と聞かれれば、通常は心を晴れやかにするものだったり、不安な気持ちから解放してくれるようなものを思い浮かべるかもしれない。そして、それを答えにするし他の人に勧めたりもする。まずは、自分の精神状態に直接的にプラスの作用をもたらすものを思い浮かべようとするのが通常の思考だと思う。その基準で記憶をたどると、いくつかの作品は浮かんでくる。飲み物とお菓子を用意して鑑賞すればスッキリ気分をリセットできるはずだ。ただ、それら個々の作品から得られるインパクトとなると、薄ぼんやりとしている。あえてタイトルを上げる程度の意欲がわいてこない。だから、それらを答えとするには足りないような気がしてしまった。
 なので、さしたるきっかけも無く時折思い出し、思い出すと眠っていた思考が動き出すような映画はなんだっけ?と考えた。すると、「好きな」と評するには少々斜めをいくような作品が思い浮かんでしまった。これらが一般的に言う「好きな」に入るのかどうかはわからない。けれども、これらを誰かに紹介したいか?と聞かれれば、答えは「YES」なので、これはこれで私の好きなものの範疇には入っているのだとみなすことにした。どれも結末がどうなるかよりも、そこに至るまでの流れの方を丁寧にたどる方が楽しめるタイプの映画だと思う。

 ひとつめは『汚れなき悪戯』。1955年の白黒映画。映画の中で流れる「マルセリーノの歌」は日本語版もある。ストーリーは、マルセリーノが子どもなりの良心からやってしまった行動──屋根裏にいる痩せこけた男のために食卓のパンをこっそりくすねてしまう──が、結末ではその男、イエスに導かれ天の母の元へ召されるという奇跡(⁉︎)を招いてしまう、というものだ。
 彼の天使のような表情からは、孤児にも関わらず愛情に包まれて育っている様子が伝わる。また、常に正しい姿勢でマルセリーノの行為を見守り導こうと努めながらも、マルセリーノのふるまいに一喜一憂する修道士たちからは愛情のあり様を教えられるようでもある。
 結末は矛盾を孕んでいて、このことがこの映画が記憶に残る理由になっている。修道士たちは、イエスに召されてしまうマルセリーノをも見守ることを選ぶ。マルセリーノというより神の意思を尊重したのかもしれない。キリスト教が絡んでいるので、この辺りは日本人にとってわかるようでわからない部分なのだと思う。とはいうものの、マルセリーノの年齢を推測すると、彼は生と死について深く考え始める前に召されたことになる。もっと早い段階で阻止するべきでなはなかったのか?けれども、映画のシーンを眺めていると、この結末が自然な流れに見えてしまうのだ。この感覚は、映画を見て感じてもらうしかないと思う。

汚れなき悪戯

 ふたつめは『ジョニーは戦場へ行った』。1971年に同タイトルの小説の著者によって映画化された。見るのには少々覚悟が必要な映画だ。なんの覚悟なく、テレビで放映してたから偶然に見てしまった私にはかなりの衝撃だった。戦争での負傷により肉の塊同然になってしまったジョニーが、自分の意思を伝えるまでが描かれている。反戦映画であることには違いない。その主張だけでもお腹いっぱいになりそうなくらい濃密な映画だ。でも、見所はそれだけではない。この映画を強く印象づけたのはジョニーの体の状態とそれを取り巻く物語の方だ。

 この映画では、思考能力は健全を保っているにもかかわらず、行為すること表現することの手段を失った人間がどのような状態におかれてしまうのかを追体験できる。体がこのような機能状態に陥ってしまったら、辛くても自殺すらできない。ジョニーは実際に手足と目と鼻と舌を失ってしまったし、現実にも病気によって同じような機能状態になってしまっている人たちがいる。その他にも──体の機能の問題ではなく政治や慣習や紛争や宗教上の教義などのせいで──、事実上、手足をもがれたような状況に押し込められてしまっている人々がいる。このような人たちの身の上に思いを馳せるためにも(しかもその状況は、自分の身に降りかかるかもしれない!)、設定に少々の無理は感じるけれど、その違和感には目をつむっても見ておく価値はある映画だと思う。

「ジョニーは戦場へ行った」予告編

 みっつめは、ロベルト・ベニーニ監督の『ライフ・イズ・ビューティフル」。1999年のアカデミー賞で外国語作品賞を受賞している。会場で受賞の発表を聞いた監督が、踊るような身のこなしで軽やかに舞台へ移動するシーンを見て「この映画見てみたい!」と思ったのが鑑賞のきっかけだった。
 この映画では悲惨なユダヤ人虐殺を題材にしているにもかかわらず、悲惨さを描き出そうとはしていない。内面の心の動きを描くためにオーバーになりがちな感情表現を極力抑えながら事実を伝える工夫がなされている。最後のシーンでは、父親と息子は収容所ではない別の世界にいるような笑顔を向け合っていた。それでも号泣してしまうのは、映画を見る私たちが収容所のユダヤ人らの悲壮な運命を知っているからなのだと思う。
 コミカルに描かれる収容所の様子からは、懸命に命を繋ごうとした人たちの体温が感じられる。明るく描かれてはいるが、その行動のひとつひとつが死と隣り合わせであることは説明されずとも理解できる。それだけに、家族への愛情がより際立っている。いわゆる「力」で守る能力を持たない男が、機知とユーモアと勇気で必死に家族を守ろうとする姿は、自分の力不足をもどかしく感じている多くの人にヒントを与えてくれるとも思う。

 余談:ユダヤ人の虐殺につながる要因ともなったドイツの安楽死の第一号は、幼い障害児だったそうだ。親からの切望によるものだったらしい。何ともやりきれない。

「ライフ・イズ・ビューティフル」YouTube

 

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