« コロナ禍のはじまりと布マスク | トップページ | 「育て方を間違った」という言いまわし »

2021年4月 7日 (水)

人生最高の「花見」

 「花見」の楽しみ方といえば、いつものランチタイムやティータイム、それに夜の飲み会の場所を桜の花の下に変えて、いつもより華やいだ心持ちで楽しいひと時を仲間で楽しむといったところだろう。冬は冬で楽しみ方はある。けれども春の訪れは、寒さで縮んでいた心身を緩ませてくれるような不思議な力がある。少し浮かれた景色の中でおいしいものを食べ、おしゃべりに夢中になれる時間は実に楽しい。記憶の中にある花見に甲乙をつけることは難しい。

 落語で語られる「長屋の花見」のような花見は、去年は事実上禁止された。それどころか、外出することすら憚られるような状況だった。そのせいか、いつもジョギングに行く公園には、ほとんど人がいなかった。私と同じように走っている人は数人見かけた。遊具がある場所には黄色いテープで囲われていてそこには立ち入ることができないようになっていた。いつもの春ならば、まっすぐ歩けないほどの人が集まる日すらあるのに、この年の春は静かだった。
 公園整備のため草刈り機で刈られてしまうはずの雑草が伸び放題で放置され、それぞれに花を咲かせていた。初めてみる光景だった。人間がシートを敷いてお花見を楽しむはずの場所は、花を咲かせた雑草でいっぱいだった。きれいだなと感じ、スマホに記録した。
 
 保育所のパートも自宅待機になっていたので、ほぼ毎日公園へ行った。実に静かに充分に桜の花を眺めることができた。咲き初めから散り終わるまで、時間をかけてその推移を目にすることができた。それに例年ならば、花見を楽しむ人たちに遠慮して遠目から桜を見るが、この年はそんな遠慮も必要なかった。雑草さえ厭わなければ、どの場所からもゆっくりと静かな環境で桜を眺めることができた。

 ある意味では贅沢な花見ができたものだと思う。もう2度とできない経験だろう。ほとんど貸切状態の広大な公園で、伸び放題になった雑草の花々が色とりどりに咲いている中、桜が満開を迎えた光景はこの年限りだろう。完全に放置された光景ではない。1時間以内の滞在に留めるように促す公園のアナウンスがそのことを伝えていた。

 走りながら、花は見られるために咲くわけではないと感じた。咲く時期が来たから咲くのだ。見てあげなければ花が可哀想と言う人がいるかもしれないが、取り越し苦労だと思う。気の毒なのは楽しんでもらうために手入れに励んだ人たちなのだ。

 ほんとうなら数え切れないほどの人たちが楽しんだはずの花々を、ひっそりと静かに眺めるという贅沢な時間だった。むろん、仲間と花を愛でながら食事を楽しむ時間は楽しい。そのことには異論はない。けれども、思わぬところで桜の花自体を楽しむ時間を得ることができた経験は、これはこれで他では変え難い経験だったと思っている。

« コロナ禍のはじまりと布マスク | トップページ | 「育て方を間違った」という言いまわし »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« コロナ禍のはじまりと布マスク | トップページ | 「育て方を間違った」という言いまわし »