コロナ禍での生活の変化
自分自身は基本的に変わらない姿勢で暮らしているはずだ。仕事はもともと辞める予定ではあったわけだし、引きこもっていても本と電波があればさして困らないメンタルに仕上がってしまっているので、落ち込むこともない。むしろ、無料の動画や質の高い資料が多く公開されているおかげで暇や不安を感じる暇がない。
私の場合、かえって人間不信であることが幸いしているかもしれない。自分の状況の変化に関していえば、コロナ禍を理由に必要最小の人間に報告するにとどめることができたことを幸いに感じている。精神的にはラクだった。あとは、少数の人間からじわじわと情報が伝わっていってくれてもいいし、そうでなくても構わない。
ただ、母は困っている様子だ。彼女は誰かと交信、つまり話をしていなければ精神がもたなくなってしまう。話す内容を承認してもらうことで、精神の平衡を保っている彼女にはこの状況は辛いだろう。
時折、頭がボーッとするらしい。私がすべてを肯定する聞き役に徹することができればいいが、そうすると私の方が辛くなってしまう。
他人ならば、今だけのことだと割り切ることもできるかもしれないが、母親となるとそうもいかない。
テレビを見て、現在の状況を彼女なりに咀嚼しようとしている姿を見ると胸が痛むが、近距離の買い物やランチに連れ出すくらいしかできない。
彼女は海外旅行をしたいらしいが、年齢と体力を考えるとそれは厳しいだろう。コロナのおかげでそれを口にしなくて済んでいる。
感染症との付き合いはこれからも続くのだろう。アクティブに動きたい人にとっては、息苦しい時代の到来である。
仲間内の勉強会はズーム開催が定着した感がある。勉強会後の打ち上げが無くなったせいか、酒量も減った。
「また、いつものところでやりたいね」と言いつつも少しづつオンラインでの開催のメリットを活用していく方向に向かうことは正しい選択だと思う。新しいコミュニケーションの方法にもいいことがたくさんある。それになれていく方が世界は確実に広がる。
しかし、それを母に要求するのは無理だ。頭が痛い。
« 憐れみの感情に対する疑惑 | トップページ | 田んぼ風景とコンクリートの建物の風景 »
コメント